松山観光ガイドその33~四国名城松山城(17)現代~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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17.現代
第2次大戦では松山城も大きな被害をうけましたが、いくつかの建物が焼失しました。しかし天守閣は生き残りました。
戦後、松山城も焼失していた建物を復興しましたが、馬具櫓を除いて他のすべての建物が木造で復元されました。
各地のお城も復元されましたが、ほとんどのところはコンクリートのお城になりました。
現在、松山城とその周辺を含めて城山公園として市民に親しまれています。
また、毎日多くの観光客が来城されていますが、全て木造のお城ということで人気を博しています。
松山城の桜
城山公園から見る松山城と桜
かつての城下町、城山公園も素晴らしいお花見スポットです
チョンミョンソク先生の箴言
「神様」を信じ「神様の御言葉」を信じて行なう必要性を分かって行った人は、
絶対に永遠な地獄に行かない人だ。
松山観光ガイドその32~四国名城松山城(16)幕末・明治~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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16.幕末・明治
今現在は江戸時代に作られた天守を持つお城は全国に12城残っています。
この12城を「現存12天守」と呼んでいますが、松山城もその一つです。
幕末になり官軍が攻めてこようとしたとき、ときの城主勝成は無血開城を実行しました。
即ちお城は国に返還し、自分たちは平民になって開城したので、官軍は攻めてきませんでした。そして松山城は生き残りました。
今度は明治になって、明治政府は「廃城令」を出して、全国に100以上あったお城を全部壊せというものでした。
松山城もその対象になりましたが、松山市民が反対運動を起こしたのです。
まだ建て替えられてから10年も経っていないのにもう壊せというのかと言って反対し、その結果松山城は残すことになったんですね。そこでまた生き残りました。
「現存12天守」の中では、江戸時代の最初の頃に建てられた姫路城や松本城は国宝になっていますが、松山城は江戸時代の終わりころに建てられた一番新しい天守で国の重要文化財に指定されています。
こちらは国宝「松本城」です
松山城 大手門と桜
チョンミョンソク先生の箴言
<力を使う時>は武力で、一度に、どばっと使うのではなく、
持続的に働くことを考えて使いなさい。
そうしてこそ長い間、力を使う。
松山観光ガイドその31~四国名城松山城(15)松平藩~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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15、松平藩
松平定行は家康の甥にあたり徳川直系の親藩になったわけです。
この松平が幕末まで15代続くことになりました。
松平定行は着任してすぐに、加藤嘉明が作った5層の大天守を3層に改築しました。
普通改築するというのは大きくするというイメージがありますが、小さくしたのです。
松山みたいな小さな城下町には小さな天守のほうが目立たないという幕府に気を使って小さくしたという説もあります。
しかし、それから100年位後に天守閣に雷が落ちて焼け落ちてしまいました。
すぐに復興しようという動きもありましたが、そのころには江戸時代の中期でしたが、
世の中平和になっていてもう天守閣など要らないのではという意見もあって、伸び伸びになって70年間天守のない松山城でした。
しかしやっぱり作ろうという動きになり天守閣を再建しましたが完成したのはペリーが来たころのことでした。
天守閣前の広場です。
桜の時期は、お花見客でにぎわいます。
チョンミョンソク先生の箴言
各自<自分がしなければならないこと>を前にして「できる能力」がみんなある。
<共に>やるためには「あなた」がやりなさい。
松山観光ガイドその30~四国名城松山城(14)歴史~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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14.歴史
まず築城の歴史からです。
元々この加藤嘉明は豊臣秀吉の家来でしたが、秀吉があちこちの戦にでていきましたので、そのたびに戦に参加し、戦功をあげ重用されました。
同じように戦で功名をあげた武将が秀吉の部下に7人いましたが、
加藤清正、福島正則、片桐勝元、加藤嘉明などの7人の武将のことを
「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」と呼ばれ名を馳せました。
秀吉が生きている間は大きな働きをしましたが、秀吉が亡くなって秀吉のあとを
継いだのは石田三成派でこの7人のグループとは対立するようになりました。
ちょうどそのころ1600年のことですが関ヶ原の戦いがあり、東西分け目の決戦といわれましたが、その時この7人のグループは東軍即ち徳川方に味方し、
思いっきり石田三成派をたたきました。これが東軍が勝った一つの要因になりました。
この戦いぶりを徳川家康がみていてこの7人がえらく気に入り、後でこの7人にご褒美を与えました。
嘉明はこのご褒美で、これまで正木城の6万石の城主でしたが、
いきなり20万石に引き上げられました。嘉明はいきなり石高で3倍強になったわけです。
そこで嘉明は正木城が手狭になっていたので、もっと大きなお城がほしいと言い出し、松山城を作ることを計画しました。
そのようないきさつで松山城が出来ることになったわけです。
嘉明はこの山にお城を築き始めこの城を「松山城」と命名しました。
この辺りには松山という地名は全くなかったのですが、なぜ松山城にしたかいくつか説がありますが、一番有力な説はそのとき天下を取ろうとしていた家康の元の名前が松平だったので松平の松をもらって松山にしたという説です。
でも、本当のところはどうだったのか嘉明に聞かないと分かりませんが聞けないですね。
嘉明は25年の歳月をかけて築城し、城下も作りましたが、松山城が完成する前に会津に転勤を命ぜられました。
嘉明は老齢を理由にことわりましたが、今まで20万石の給料をもらっていたところ40万石出すからと言われて転勤を決断しました。
松山城が完成する前に行かされ、彼は25年もの歳月をかけて築城したのに、完成してからは一日も住んでいません。そんな人がいたから松山城は残ったんですね。
今ではゆるキャラとなり、観光客の皆さまをお迎えしています。
松山城はその後二代目の城主として蒲生忠知がおさめましたが、彼は参勤交代の途中で病に倒れ没しました。
そして三代目の城主として松平定行が着任しました。
チョンミョンソク先生の箴言
自分がしてあげられることがなくて「小さいもの」をあげても
<心と考え>を「山」のように大きくしてあげたら、
それが「大きなもの」をしてあげたことだ。
松山観光ガイドその29~四国名城松山城(13)大天守~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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13.大天守
それでは大天守に入ります。
この地下蔵の入口から中に入り、ロッカーに靴を入れ、スリッパをはいて階段を上ります。
木製の階段は傾斜が50度あって登るのが大変です。昔は女性は天守に登らなかったので、男だけの社会ですからこれで良かったのですね。
一段登ったところが一階で下は地下蔵でした。
一階の回廊をまわりますが、松山城の歴史が展示されています。
こちらは城下町の地図です。
よく見ると、住んでいた人の名前が書かれており、住所録のようなものと言えるでしょう。さらに詳しく見ると、名前が書かれている向きがいろいろになっています。
これはその家の玄関の方向を示しているそうです。
こちらは加藤嘉正が着用した甲冑です。腕に刀で切られたような跡が残っていますね。
こちらは、本壇の設計図です。松山城の天守閣は三層(三階建て)になっていますが、その時の設計図です。一層ずつ設計図が重ねられていますね。私はこれを3D設計図と呼んでいるのですが、当時としてはかなり画期的だったのではないかと思われます。
チョンミョンソク先生の箴言
若者たちが<新しい時代>を探し、新しく行く。
年をとったら、若者たちの手にひかれて行かなければ<新しい時代>に行けない。
松山観光ガイドその28~四国名城松山城(12)本壇~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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12.本壇
いよいよ本壇にはいります。
入場料は大人510円です。
入場口を通ってまず大天守がすぐ近くに見上げられます。ここがビューポイントの4番目です。
本壇の入口には一の門があり、この門を入ると狭い広場になっていますが、枡形といいます。
甲冑を着た敵の連中が40~50人しか入れないようになっていて、入ってしまったら、前方の窓を開け、右方の窓、後方の窓から一斉射撃で全滅させようというねらいです。
次の二の門を開けると白塀が続いており、鉄砲隊が多くの鉄砲狭間から外へ向けて狙い撃ちできるようになっています。
そして三の門をはいると大天守の基礎の石垣に到着します。この石垣が全く「面一」に
一直線に実に見事に作られているのが見られます。
最後の門が筋金門です。柱に筋金が入っており「筋金入り」はここからきていると伝えられています。
この最後の門までたどり着くのも大変ですが、この筋金門を敵が入ってしまうと本壇の広場に出ますが、ここでは全周から一斉射撃をうけることになり、生きて帰ることは出来ないとされています。
この本壇の広場から見ると連立式天守になっていて、大天守、小天守、南角櫓、北角櫓を四方に配置し回廊でつないだ連立式になっており、連立式平山城と呼ばれています。
松山城は一番質素な城と言われてきましたが、ほんとに飾りがない質実剛健の城ですね。
チョンミョンソク先生の箴言
かかとを上げるようにもう少しだけやればいいのに、やらないのか。
<できる能力>は<力>はあなたの中にある。
やってこそ、その力が出てくる。
松山観光ガイドその27~四国名城松山城(11)紫竹門(しちくもん)、乾櫓(いぬいやぐら)、野原櫓(のはらやぐら)~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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11.紫竹門(しちくもん)、乾櫓(いぬいやぐら)、野原櫓(のはらやぐら)
お客様のほとんどは直行で天守閣に登りますが、こちらにも見るべきものはあります。
紫竹門は門を入ったところに紫の竹の群生があり、この名がついています。ちょっとめずらしい紫の竹です。
紫竹(しちく)です。
ここから白塀が続いていますが、穴があいていますね。これは分かりますよね。そうです鉄砲を撃つ穴です。
縦長の穴は矢を打つ穴で、小さな穴が鉄砲を撃つ穴でそれぞれ矢狭間、鉄砲狭間といいます。
一人づつこの穴を受け持って鉄砲で狙ってみて下さい。
さらにここには石落としも作りこんであります。敵が大勢この石垣を登り始めたら石落としの板をはいで、水路になっているこの石をはずして落そうという計画です。
続きまして・・・
こちらの本丸の石垣を見てください。
石垣の造りが大分緻密になっていますね。先程、揚木戸門跡で見た石垣に比べると丈夫にまた登り難くなっています。
そしてこの角の部分をよく見ると角の稜線が実に緻密に作られていて、石の積み方が下から1段目は右に長い石を、2段目は左に長い石を積み、交互に同じように最上段までこのように積まれていて、角の強度を守っています。
更によく見ると最下段の石は斜め下向きに積まれ、最上段は水平に積まれていて、下から少しづつ角度を調整して積んであって、これで積まれた石の重力が一か所に集中するのを避け、分散するように造られているのですね。
頭の良い石工さんがいたのですね。
こちらは乾櫓(いぬいやぐら)と野原櫓(のはらやぐら)ですが、この二つの櫓は400年前からこの場所に建っています。
400年前に正木城というお城から移築したもので、ここに座ってから400年になります。
その正木城にいつ作られたかは記録がないので分かりませんが、400数十年前のことでしょう。
今では2年ごとに内部の開放点検が行われますが、まだ大きないたみは見受けられないので、私はまだ100年は大丈夫かなと思っています。
この櫓はやぐらといいますが、もともと矢の倉だったんですね。
敵が攻めてきたとき味方はこの櫓に駆けつければ、すぐに戦闘態勢につくことが出来るように各所に作られています。
こちらが乾櫓で、
こちらが野原櫓です。
チョンミョンソク先生の箴言
世の中は「名誉・権勢・財物・外見・学歴」などを見て「価値」を計算する。
しかしこのようなものは永遠ではない。しばしだ。