松山観光ガイドその30~四国名城松山城(14)歴史~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
前回記事はこちら
14.歴史
まず築城の歴史からです。
元々この加藤嘉明は豊臣秀吉の家来でしたが、秀吉があちこちの戦にでていきましたので、そのたびに戦に参加し、戦功をあげ重用されました。
同じように戦で功名をあげた武将が秀吉の部下に7人いましたが、
加藤清正、福島正則、片桐勝元、加藤嘉明などの7人の武将のことを
「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」と呼ばれ名を馳せました。
秀吉が生きている間は大きな働きをしましたが、秀吉が亡くなって秀吉のあとを
継いだのは石田三成派でこの7人のグループとは対立するようになりました。
ちょうどそのころ1600年のことですが関ヶ原の戦いがあり、東西分け目の決戦といわれましたが、その時この7人のグループは東軍即ち徳川方に味方し、
思いっきり石田三成派をたたきました。これが東軍が勝った一つの要因になりました。
この戦いぶりを徳川家康がみていてこの7人がえらく気に入り、後でこの7人にご褒美を与えました。
嘉明はこのご褒美で、これまで正木城の6万石の城主でしたが、
いきなり20万石に引き上げられました。嘉明はいきなり石高で3倍強になったわけです。
そこで嘉明は正木城が手狭になっていたので、もっと大きなお城がほしいと言い出し、松山城を作ることを計画しました。
そのようないきさつで松山城が出来ることになったわけです。
嘉明はこの山にお城を築き始めこの城を「松山城」と命名しました。
この辺りには松山という地名は全くなかったのですが、なぜ松山城にしたかいくつか説がありますが、一番有力な説はそのとき天下を取ろうとしていた家康の元の名前が松平だったので松平の松をもらって松山にしたという説です。
でも、本当のところはどうだったのか嘉明に聞かないと分かりませんが聞けないですね。
嘉明は25年の歳月をかけて築城し、城下も作りましたが、松山城が完成する前に会津に転勤を命ぜられました。
嘉明は老齢を理由にことわりましたが、今まで20万石の給料をもらっていたところ40万石出すからと言われて転勤を決断しました。
松山城が完成する前に行かされ、彼は25年もの歳月をかけて築城したのに、完成してからは一日も住んでいません。そんな人がいたから松山城は残ったんですね。
今ではゆるキャラとなり、観光客の皆さまをお迎えしています。
松山城はその後二代目の城主として蒲生忠知がおさめましたが、彼は参勤交代の途中で病に倒れ没しました。
そして三代目の城主として松平定行が着任しました。
チョンミョンソク先生の箴言
自分がしてあげられることがなくて「小さいもの」をあげても
<心と考え>を「山」のように大きくしてあげたら、
それが「大きなもの」をしてあげたことだ。