松山観光ガイド番外編~子規と漱石(その2)~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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そして漱石は初めて東京を離れてこんな田舎にやって来ることになりました。
初めて教壇に立ち、はじめていじめられました。
どういうことかといいますと、当時同僚の先生方が30人位いたんですが、その先生方からすると「一番若僧が一番高給取り」なわけで、しかも自分たちの何倍もの給料をもらうのが面白くない。
そんなわけでのけものにしたり、いたずらしたり、いじめたりしたんです。
漱石は着任して一か月位後に東京の子規に手紙を書いていますが「松山というところはなんと住みにくいところだ」と書いています。
東京の子規は心配になり夏休みになるのを待って帰省し、漱石の下宿「愚陀仏庵」に転がり込んで2か月弱二人が一緒に住みました。
この間、子規は漱石に文学を教えました。俳句も教えました。
其のころは文学に関しては二人は雲泥の差があって、子規が教えたんですが、後では漱石が逆転し、明治の文豪と言われるようになりました。
「はじめての泊りをしぐれけり」
明治28年(1895年)、夏目漱石が松山中学校の英語教師として赴任中、かねてから楽しみにしていた鮒屋旅館(現在のふなや)に宿泊しました。
その喜びを素直に表現したものです。
漱石は予定どおり1年間松山中学の英語の先生をやって、熊本の第五高等学校に転勤しました。
熊本には4年間も教員をやっていますが、誰も熊本の4年間のことを知りませんね。
逆に松山の1年間のことはみんな知っていますね。
漱石はその後ロンドンに留学し2年間英国滞在していますが、その間に子規が肺結核で亡くなってしまいます。
漱石は慌てて帰国しますが間に合わず大変悔しい思いをしたそうです。
漱石は松山にいたころから10年たって小説「坊ちゃん」を出しましたが、10年前の松山のことを事細かく書いています。
私たち地元の者がこの本を読むと、松山のことが「ボロのチョン」に書かれています。
いわゆる上から目線で書かれていますが、松山市民の感覚はいわゆる人の悪口を面白おかしく言うのが大好きで、この「坊ちゃん」は松山人の心をつかんでいて、悪口を言われているのに大好きです。
そしてこの坊ちゃんがいろんなことに名前として使われています。例えば「坊ちゃんだんご」、「坊ちゃんの湯」、「坊ちゃん列車」、「坊ちゃんスタジアム」など数えきれない程です。
それだけ「坊ちゃん」が愛されている訳です。
「坊ちゃん団子」
小説「坊ちゃん」はみんな学生の頃に読んでいますね。
ですから読んだ通りに受け取っていると思いますが、このような裏側を知って読んでいただければ更に面白いと思います。
この本は薄い本ですからもう一度読んで頂きたいと思います。
以上で松山城ガイドのお話を終わりますが、お帰りの際、さきほど登ってきた本丸広場に売店があり、蛇口をひねるとミカンジュースが出てくるという松山名物がありますのでぜひお立ち寄りください。
チョンミョンソク先生の箴言
<神様の創造目的>は、人間が地上で三位一体を最高に愛して
「愛の対象体」になって、地上で肉ででも、天国で霊ででも、
三位一体を愛して生きることだ。