松山観光ガイドその13~道後温泉本館・又新殿~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
前回記事はこちらです
皇族専用の又新殿(ゆうしんでん)は全国に一つしかない御召湯です。
したがって門の屋根には龍、鳳凰、湯玉の彫り物を頂いています。
この又新殿は約50年前から使われなくなっていますが、使われたのは約10回と
言われており、そのうち大正天皇が1回、昭和天皇が2回お出でになりました。
天皇がお出でになられる時は、一週間前から周囲は立ち入り禁止になり、
石造りの湯船に毎日お湯を入れては抜くことが繰り返され、湯船の石が
ちょうどよい加減に温められるようにしたそうです。
当然、普段は誰も入らない湯船ですから冷え切っていますよね。
今では松山に皇族が来られてもこちらには来られず近くのホテルに泊まられます。
チョンミョンソク先生の箴言
<自分の青春の時、自分にとって最高によい時>を、「天」のために使いなさい。
そうしてこそ「未来」が大きい。
次回記事
松山観光ガイドその14~空の散歩道~
松山観光ガイドその12~道後温泉本館・北側正面~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
前回記事はこちらです。
じつはこの道後温泉本館3階建ての建物の正面はこちら側です。
この建物は正確には4階建てです。屋根の上の塔屋に「振鷺閣」という太鼓台があって
その上には伝説になっているシラサギがこちらを向いてとまっています。
この太鼓台の周りには赤いガラスの窓がありギヤマンの窓と呼ばれています。
今でも毎日6:00、12:00、18:00にはこの太鼓を響かせて時を告げています。
ちなみに、太鼓を叩くのは松山市の職員です。
3階は個室の休憩室になっており、2階は共同休憩室、1階は更衣室と浴室になっています。
1階には3つの唐破風の玄関があり、建てた当初は昔のしきたりに従い
左から武士・僧侶用の入口、真ん中は女子の入口、右側は一般男子の入口に分かれていました。
建てられてからしばらくして商店街ができ人々は西側入口から入館するようになり、
正面入り口は使われなくなり、閉め切ってから100年以上になります。
美しくレトロな建物ですがこの本館は当時近代和風建築のハイカラなものでした。
建築にあたって当時の町長・伊佐庭如矢が大工棟梁・坂本又八郎に命じて
100年後にも栄えるものにしようと命じて建てたものです。
北側正面から見ると全体としてジブリ映画「千と千尋の神かくし」に出てくる湯屋の場面を彷彿としますね。
どうでしょうか・・・?
チョンミョンソク先生の箴言
一つ二つのことをしたからといって成功するのではない。
それに該当する全てのことを全部行ってはじめて成功する。
松山観光ガイドその11~道後温泉本館・西側正面~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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初めての方はこちらをどうぞ
さあ、いよいよメインの「道後温泉本館」に到着しました。
道後温泉本館のたたずまいは素晴らしいでしょう。
今から120数年まえに建て替えられた建物で国の重要文化財に指定されています。
最初に左側の3階建ての建物を作り次第に建て増してこのような形になりました。
屋根瓦の頂部は道後温泉のお湯が沸き出ている様を表している湯玉です。
入口の上に道後温泉と書いた看板がありますがこの看板は
戦後昭和35~45年にかけて小説「坊ちゃん」が5度にわたって映画化されました。
毎回配役が変わってこの道後温泉も舞台として使われました。
その第1回目の撮影のとき映画会社が作ってはめたのがあの看板で、
それからずーとそのまま使っています。
でも何かなじんでいますね。
それ以前は入口の両側にたっている道後温泉と書いた行灯だけでした。
道後温泉本館は年間80万人以上のお客様が利用していますが、
ミシュラングリーンガイドにも三ツ星の評価を得ており、最近外国からのお客様も増加してきています。
入り口の横に値段表があって利用料が4段階になっています。
どのコースにはいっても温泉の泉質は同じですが休憩室が違います。
又新殿の見学コースもありますのでおすすめです。
このようにガイドしております^^
チョンミョンソク先生の箴言
<考え>は「観念」を生むが<実践>は「実体」を生む。
小さくても「実体」を得なければならないし、
大きくても「実体」を得なければならない。
松山観光ガイドその10~聖徳太子の碑文~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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奈良飛鳥時代、聖徳太子が道後に来浴されたという碑文が「椿の湯」前にあります。
この碑は聖徳太子が道後の眺めがすばらしいこと、
温泉に差し掛けている椿の見事なことを詠んで
石碑にされたものと言われています。
本物の石碑はいくえ知れずですが、
文章は金石文の一つとして重要視されています。
来浴された記録が最も古いものです。
ちなみに「椿の湯」は道後温泉本館近くにある姉妹湯であり、
先ほど紹介しました聖徳太子のことばに起源をもち、その名がつけられたものです。
お湯は本館と同じであり、本館と同じ形の花こう岩で造られた湯釜も設置されています。
地元の方々は、こちらをよく利用されます。
チョンミョンソク先生の箴言
脳の鍛錬、体の鍛錬は自分の責任だ。
脳と体が健康であるように、自分が自分を作って、体質を変化させることだ。
車も使う通りに、慣らす通りに性能を発揮する。
次回記事
松山観光ガイドその11~道後温泉本館・西側正面~
松山観光ガイドその9~熟田津(にきたつ)の道~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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ハイカラ通りを進んでいくと「熟田津(にきたつ)の道」と呼ばれる道があります。
この道です。
どのような道かと言いますと、
万葉の時代斉明天皇一行が九州へ下る途中道後に立ち寄られましたが、
当時道後の近くには熟田津と呼ばれる港があり、
港から道後までの道が熟田津の道と呼ばれていました。
九州に出発するとき船団を整え、いざ出発というときに追従していた
額田王が詠った歌が有名で
「熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今はこぎいでな」
の歌で万葉集にもでています。
訳:熟田津で船出をしようと月を待っていると、満月が南の空に出てきた。
潮の流れも九州へ向いた。すべてが叶った。さあ、今こそ漕ぎ出そう。
現代では四国霊場をまわる巡礼の道として案内の石柱があります。
チョンミョンソク先生の箴言
<目的>を成すためには、全てを諦めて「それ」だけをやらなければならない。
そのように<目的>を成し遂げれば、そのときはじめて「願っていたもの」が
成されて得るし、それによってまた「次の目的」に向けて行なうようになる。
次回記事
松山観光ガイドその10~聖徳太子の碑文~
松山観光ガイドその8~ハイカラ通り・案内図~
松山観ボランティアガイド江藤です。
いよいよ道後温泉本館へと向かって行きましょう。
前回記事
この入口から入ってすぐの右手に案内図があるので、ぜひご覧ください。
この案内図は道後温泉本館へ行く道を
ピンク色で示していますが、
この道をハイカラ通りと呼んでいます。
明治27年に現在の建物に建て替えられたときには
周りに高い建物はなくこの本館が3階建の建物で目立っていました。
そこで周りの人々はビルディングが出来たと云ったものです。
そして左側の3人のユニフォームを着た人は
この3人が松山出身の世界的に名を知られている人だといわれています。
秋山好古は日露戦争で世界最強と言われていたコザック騎兵隊を撃破した人、
秋山真之は日露戦争で世界最強と言われたバルチック艦隊を撃破した人、
正岡子規はその名を知らない人がいないくらいの近代俳句の父です。
そしてこの3人が来て着ているユニフォームは
襟の高いユニフォームになっていますが、
当時この襟の高い服が流行していたんですね。
それで当時モダンな服をハイカラともてはやしたんです。
高い襟すなわちハイカラーだったわけです。
このピンクのこの通りもモダンだったのでハイカラ通りと呼ぶようになりました。
ハイカラ通りはアーケード街になっており、
お土産屋や食事処が並んでいます。
チョンミョンソク先生の箴言
大きい仕事をするためには、
「明け方の時間」を使いなさい。
力を使う知恵、時間を使う知恵、
力を蓄える知恵、時間を蓄える知恵だ。
次回記事
松山観光ガイドその9~熟田津(にきたつ)の道~
松山観光ガイドその7~子規記念博物館~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
前回記事
道後公園の入口にあるこの大きな建物は松山市立の子規記念博物館です。
正岡子規の作品を中心に収蔵し、その世界を
再現した文学系の博物館で文学が好きな方にとっては
たまらない場所のようです。
子規と漱石が五十余日一緒に過ごした
「愚陀仏庵」の一部も館内に復元されています。
子規記念博物館の前には子規と漱石の俳句を
彫り込んだ句碑が建てられています。
二人はなんと親友であり、
俳人なのに・・・なぜ野球のユニフォーム姿??
と、不思議に思われる方も多いと思います。
正岡子規は日本に野球が導入された
最初の頃の熱心な選手でもあり、
ポジションは捕手でした。
2002年には野球殿堂入りを果たしています。
子規と野球の関係については・・・
また後ほど詳しくご説明いたします。
チョンミョンソク先生の箴言
かかとを上げるように
もう少しだけやればいいのに、やらないのか。
<できる能力>は無限だ。
<力>はあなたの中にある。
やってこそ、その力が出てくる。
次回記事
松山観光ガイドその8~ハイカラ通り・案内図~