松山観光ガイドその36~四国名城松山城(19)天守閣最上階・西側~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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西側も遠くは瀬戸内海です。天気が良い日には島々の向こうに山口の山々が見えます。
しかし九州はみえませんね。
近くに島が一つ見えていますが、興居島といいます。ここも松山市内ですが橋がなくフェリーで渡ります。
興居島の海岸です。
その向こうにも4つの島々が松山市内に合併されましたが、それぞれのミカン特にいよかんの産地です。
島のミカンはおいしいですよ。
すぐ近くにここと同じくらいの高さの山があり、頂上に展望台が見えます。
ここは総合公園といって山全体が公園になっています。
この頂上の展望台は、松山市がドイツのフライブルグという町と姉妹都市になっており、そのフライブルグにあるお城と同じものを作って展望台にしました。
チョンミョンソク先生の箴言
体は一つだから同じ時間に二か所に行けない。
大事で、また大事で、大事なことだけ選んで行ないなさい。
松山観光ガイドその35~四国名城松山城(18)天守閣最上階・北側~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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天守閣のてっぺんに登ってきました。
最上階は海抜160m位あって360度すばらしい眺望です。
まず北側からの眺めですが、遠くは瀬戸内海で天気の良い日は島々の向こうに広島の山々が見えます。
加藤嘉明はこのお城をつくる際、部下を集めて討論会を行いました。テーマは「敵は誰か、どこから攻めてくるか」でしたが、
その時の結論は「敵は広島の毛利だろう。毛利が攻めてくれば船であの港に入るだろう」というものでした。
そこで嘉明はあの港が見えるこの場所に、この高さでお城を作ろう決めました。
また、あの港からここまで5km位ありますが、途中に7曲がりという仕掛けをつくりました。
道路を7つに曲げて、その1曲がりに何人の兵が入るかをあらかじめ調べて置き、敵が上陸して攻めてくるとき何人位とすぐに分かるようにしました。
今ではまっすぐな道路になってしまいましたが。
チョンミョンソク先生の箴言
<福音>で「救い」が始まる。<福音>は「嬉しい知らせ」だ。
<福音>を伝えることで、命たちを死亡から命へ導き出す。
松山観光ガイド番外編~郷土菓子「タルト」~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
いよいよ天守閣最上階まであと一歩となりましたが、ここで一休み。
松山の郷土菓子のタルトをご紹介しましょう。
お土産にもよく選ばれます。
タルトといえば、通常は「皿状にした生地にフルーツなどを盛り付ける焼き菓子」の方のタルト (tarte) を指しますが、愛媛県では主にこの郷土菓子を言います。
江戸時代の初めごろ時のお殿様松平定行が長崎の警備に行った際、南蛮菓子に接しその製法を松山に持ち帰ったのが起源と言われているものです。
そのタルトはカステラの中にジャムが入ったものと言われ、そのジャムが手に入らず餡入りにしたものです。
この「タルト」は松山藩主・松平定行によって長崎から伝えられたものです。
長崎探題職を兼務していた定行は正保4年(1647年)、ポルトガル船2隻が長崎に入港したとの知らせで長崎に向かい、
海上警備にあたりました。
結局のところ、ポルトガル船は国の統治者が代わったこと(ブラガンサ王朝の成立)を伝えるだけだったため港湾内で争いは無く、
この際に定行は南蛮菓子に接しその味にいたく感動し、製法を松山に持ち帰ったといわれています。
その南蛮菓子はカステラの中にジャムが入ったものであったようです(現在のロールケーキのようなものであったと推測されます)。
現在の餡入りのタルトは定行が独自に考案したものと考えられています。
その後久松松平家の家伝とされ、今では四国特産の柚子が入った餡をカステラで巻き込んだ上品なお菓子となり、日本と南蛮の複合文化として愛媛の名産になりました。
季節によって、抹茶、桜、黒ゴマ、栗など・・・様々な種類も出ています。
積み上げても良し、
デコレーションしても良し・・・
是非一度、ご賞味ください^^
チョンミョンソク先生の箴言
最初は一番気に入って選んだのに
時間が経っていくうちに「もっとよいもの」が出てきて後悔する。
だから「神様」に委ねなさい!「主」に委ねなさい!
松山観光ガイドその33~四国名城松山城(17)現代~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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17.現代
第2次大戦では松山城も大きな被害をうけましたが、いくつかの建物が焼失しました。しかし天守閣は生き残りました。
戦後、松山城も焼失していた建物を復興しましたが、馬具櫓を除いて他のすべての建物が木造で復元されました。
各地のお城も復元されましたが、ほとんどのところはコンクリートのお城になりました。
現在、松山城とその周辺を含めて城山公園として市民に親しまれています。
また、毎日多くの観光客が来城されていますが、全て木造のお城ということで人気を博しています。
松山城の桜
城山公園から見る松山城と桜
かつての城下町、城山公園も素晴らしいお花見スポットです
チョンミョンソク先生の箴言
「神様」を信じ「神様の御言葉」を信じて行なう必要性を分かって行った人は、
絶対に永遠な地獄に行かない人だ。
松山観光ガイドその32~四国名城松山城(16)幕末・明治~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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16.幕末・明治
今現在は江戸時代に作られた天守を持つお城は全国に12城残っています。
この12城を「現存12天守」と呼んでいますが、松山城もその一つです。
幕末になり官軍が攻めてこようとしたとき、ときの城主勝成は無血開城を実行しました。
即ちお城は国に返還し、自分たちは平民になって開城したので、官軍は攻めてきませんでした。そして松山城は生き残りました。
今度は明治になって、明治政府は「廃城令」を出して、全国に100以上あったお城を全部壊せというものでした。
松山城もその対象になりましたが、松山市民が反対運動を起こしたのです。
まだ建て替えられてから10年も経っていないのにもう壊せというのかと言って反対し、その結果松山城は残すことになったんですね。そこでまた生き残りました。
「現存12天守」の中では、江戸時代の最初の頃に建てられた姫路城や松本城は国宝になっていますが、松山城は江戸時代の終わりころに建てられた一番新しい天守で国の重要文化財に指定されています。
こちらは国宝「松本城」です
松山城 大手門と桜
チョンミョンソク先生の箴言
<力を使う時>は武力で、一度に、どばっと使うのではなく、
持続的に働くことを考えて使いなさい。
そうしてこそ長い間、力を使う。
松山観光ガイドその31~四国名城松山城(15)松平藩~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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15、松平藩
松平定行は家康の甥にあたり徳川直系の親藩になったわけです。
この松平が幕末まで15代続くことになりました。
松平定行は着任してすぐに、加藤嘉明が作った5層の大天守を3層に改築しました。
普通改築するというのは大きくするというイメージがありますが、小さくしたのです。
松山みたいな小さな城下町には小さな天守のほうが目立たないという幕府に気を使って小さくしたという説もあります。
しかし、それから100年位後に天守閣に雷が落ちて焼け落ちてしまいました。
すぐに復興しようという動きもありましたが、そのころには江戸時代の中期でしたが、
世の中平和になっていてもう天守閣など要らないのではという意見もあって、伸び伸びになって70年間天守のない松山城でした。
しかしやっぱり作ろうという動きになり天守閣を再建しましたが完成したのはペリーが来たころのことでした。
天守閣前の広場です。
桜の時期は、お花見客でにぎわいます。
チョンミョンソク先生の箴言
各自<自分がしなければならないこと>を前にして「できる能力」がみんなある。
<共に>やるためには「あなた」がやりなさい。
松山観光ガイドその30~四国名城松山城(14)歴史~
松山観光ボランティアガイド江藤です。
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14.歴史
まず築城の歴史からです。
元々この加藤嘉明は豊臣秀吉の家来でしたが、秀吉があちこちの戦にでていきましたので、そのたびに戦に参加し、戦功をあげ重用されました。
同じように戦で功名をあげた武将が秀吉の部下に7人いましたが、
加藤清正、福島正則、片桐勝元、加藤嘉明などの7人の武将のことを
「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」と呼ばれ名を馳せました。
秀吉が生きている間は大きな働きをしましたが、秀吉が亡くなって秀吉のあとを
継いだのは石田三成派でこの7人のグループとは対立するようになりました。
ちょうどそのころ1600年のことですが関ヶ原の戦いがあり、東西分け目の決戦といわれましたが、その時この7人のグループは東軍即ち徳川方に味方し、
思いっきり石田三成派をたたきました。これが東軍が勝った一つの要因になりました。
この戦いぶりを徳川家康がみていてこの7人がえらく気に入り、後でこの7人にご褒美を与えました。
嘉明はこのご褒美で、これまで正木城の6万石の城主でしたが、
いきなり20万石に引き上げられました。嘉明はいきなり石高で3倍強になったわけです。
そこで嘉明は正木城が手狭になっていたので、もっと大きなお城がほしいと言い出し、松山城を作ることを計画しました。
そのようないきさつで松山城が出来ることになったわけです。
嘉明はこの山にお城を築き始めこの城を「松山城」と命名しました。
この辺りには松山という地名は全くなかったのですが、なぜ松山城にしたかいくつか説がありますが、一番有力な説はそのとき天下を取ろうとしていた家康の元の名前が松平だったので松平の松をもらって松山にしたという説です。
でも、本当のところはどうだったのか嘉明に聞かないと分かりませんが聞けないですね。
嘉明は25年の歳月をかけて築城し、城下も作りましたが、松山城が完成する前に会津に転勤を命ぜられました。
嘉明は老齢を理由にことわりましたが、今まで20万石の給料をもらっていたところ40万石出すからと言われて転勤を決断しました。
松山城が完成する前に行かされ、彼は25年もの歳月をかけて築城したのに、完成してからは一日も住んでいません。そんな人がいたから松山城は残ったんですね。
今ではゆるキャラとなり、観光客の皆さまをお迎えしています。
松山城はその後二代目の城主として蒲生忠知がおさめましたが、彼は参勤交代の途中で病に倒れ没しました。
そして三代目の城主として松平定行が着任しました。
チョンミョンソク先生の箴言
自分がしてあげられることがなくて「小さいもの」をあげても
<心と考え>を「山」のように大きくしてあげたら、
それが「大きなもの」をしてあげたことだ。